The Period of F-5E/F -3
嘉義基地に所属する第4大隊の各中隊はほぼ同じような歩みを経て、内戦中の一部の混乱期を除き現在まで1つの部隊として行動を共にして来たせいか結束力が強い。1936年10月16日に大陸の杭州で創設された21、22、23の各中隊は、共にアメリカ製のカーチス・ホークを受領し、飛来する日本軍機を迎撃するところから歴史が始まるが、現在はF-16A/Bをもって人民解放軍に対する防空任務を担っている訳だ。F-100A時代からスコードロンカラーを明確に打ち出して、機体に中隊を識別できる赤(21TFS),黄22TFS、青23TFSで飾っていたが、1990年代後期にはF-5E自体の機数も不足気味となった為、一切の中隊識別マーキングは消されていた。
第4大隊
4th AIR GROUP
嘉義基地の周辺道路、もう20年も前の光景であるので今は様相がすっかり変わっているはずである。当時はF-5を撮ろうと周辺道路をぐるぐると探し回ったが フライトがない場合 ランウェイの位置も外からは判断できず シェルターだけがやたらと林立する物騒な光景であった。
台湾が当初F-5E/Fを導入する際のプロジェクト名は”虎安計画”という、1973年2月9日 同プロジェクトは、まず100機のF-5を取得するところから開始し 1974年10月30日 蒋介石総統の88歳の誕生日(かぞえの歳)の前日に最初の1号機(序号5101)を受領して 蒋介石総統の字である”中正”と命名した。100号機は、1977年11月に完成したとされる。ちなみに 蒋介石総統は、1975年4月5日に没している。
ところが、フライトに遭遇すれば周辺道路のすぐ近くまでF-5が迫る、何とも迫力の有り過ぎる環境だったのだ。近すぎて逆に緊張し慌てて現場を離脱した。パイロットからもこちらが丸見えなのである。
さて、E型ばかりご紹介したのでF型もご覧いただく事にしましょう。各航空団に万遍なく配置されたF型は、稼働機数が少なくなってきたF-5E/Fの部隊にとっては、パイロットの練成上非常に有難い存在だったはずである。一挙に2名が実際のフライトを経験できる訳であるだ。しかし、よく使われる機体とそうではない機体がどの部隊もはっきり存在し、撮れた機数はそう多くない。下はいつ行っても目にした序号”30115”
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